矢内絵奈さんに出逢ったのは2004年か2005年のことになります。
東京や横浜のクラブの、ハウス/テクノを鳴らすダンスミュージックのパーティで楽しそうに踊る彼女の姿に出逢いました。
絵奈さんの写真を見るようになったのはそれから少しあとのことでした。
「ポスターのようなカラフルできれいな写真だなあ」
それがぼくが絵奈さんの写真を見た時の最初の感想でした。
当時絵奈さんは水面に映る町や空を、ちょうど逆さ富士のように撮り続けていたのをよく憶えています。
水と町と空と色、水に映る逆さまの世界。
それはおそらく絵奈さんのライフワークでした。
空に水、山に川、緑やそこにある空気の色。
その頃から絵奈さんはずっとそれらにカメラを向け続けています。静かに。
少し話をずらします。
ぼくはときどき、人間の嗜好には2種類あるのだということを思い浮かべます。
旅を続けるひと、そこに留まるひと。
熟成させるひと、発散するひと。
想像するひと、直視するひと。
シンプルに減らしてゆくひと、量を積み重ね増やしてゆくひと。
自分に訊くひと、誰かに訊くひと。
寒さを好むひと、暑さを好むひと。
北へ向かうひと、南へ向かうひと。
クラブパーティで踊ることが好きだった絵奈さんは、カメラを手に全国各地へ踊りに遊びに行くようになり、
その延長線上にある行為としていつしかこの国にある洗練された寺院や神社、
ありのままの自然を感じる旅を重ねていくようになりました。
いつだっだか、ぼくは絵奈さんの写真(の多く)が一点にフォーカスしていないことに気づきました。
そのことを絵奈さんに直接訊いたことや話したことは今まで一度もないのですが、
ぼくなりに想像してみたことを書いてみます。
それは、「見つめること/視つめること」ではないかと思っています。
絵奈さんの写真はそこにあるすべてのものにフォーカスしています。
隅々までくっきりと、絵奈さんにしか出せない色彩で、その世界を全体として写しとっています。
緑はより緑に、空はより高く、影はより暗さを携え、静寂はより静けさをもって。
ぼくたちが目で見ているこの世界を、絵奈さんは彼女の色で柔らかく、時に気品をもって提示してくれます。
ふにゃっとしながらも所々に凝り固まった(不器用な)ものを持っている絵奈さんが、
くーっとなりながらカメラのレンズを覗いて、
何年も何年もシャッターを切り続けているその「瞬間」のことを想像してみます。
レンズを覗いている絵奈さんは、
その時その向こうにある景色と一体となり、その周りにある自然の一部となって、
そこにある空気のすべてを吸い込んでそこに存在している、あるいは存在しようとしているのではないかと思います。
それはそこにあるすべてを全体として「見つめること」であり、解ろうとすること、受け容れること、取り入れること、
そして、ありのままそこに在るということではないかと思います。
2011年11月11日に発表される『MOUNTAIN』は、音楽で繋がった縁を大切に育むひとりの女性カメラマンの自主出版写真集です。
これは彼女の旅の記録であり、彼女が見つめ、感じ、その自然の一部としてそこに在った記録でもあります。
1の並ぶ日に生まれた彼女が1の揃う日に産み落とすはじまりの1冊。
それは、この世界の真っ白な景色から始まります。
隅々までくっきりと写ったその写真をよく見てください。
牧場で食べるソフトクリームのように滑らかでふわりとした雪と、
宇宙と呼びたくなるような真っ青な空、
随所に顔を見せる厳しくも気高い山肌。
厚い雪の下で静かに息づいているはずの命たち。
その自然すべてから、音が聴こえてこないでしょうか。
静かな世界の、静かな音が。
ぼくには確かにその音が聞こえてきます。
雪山の孤独のなかで絵奈さんが耳にしたはずの自然とひとの営みの音が。
その音が聞こえてきた時、ぼくは絵奈さんが見つめようとしたものを、目だけでなく耳と脳からも感じることが出来るような気がするのです。
そんな意識へと連れていってくれる絵奈さんの写真が、ぼくは大好きです。
耳を澄ませばあなたもそこに立っているような気になってこないでしょうか?
『MOUNTAIN』のなかには、小さき点のようなひとの姿がいくつも写っています。
あまりにも大きな自然のなかの、あまりにも小さき存在。
ぼくはそれを見て、こんな空想をします。
その小さき生きものは、自然と一体になりシャッターを切った絵奈さん自身の姿なのか、
はたまた絵奈さんの写真に耳を澄ますあまりもうひとつの時間に入り込んでしまったぼくらの姿なのか。
いずれにしてもそこには絵奈さんからの、彼女が自然へ抱くのと同じ類いの畏怖と愛情がたっぷり込められているのではないかと思うのです。
あなたはどう感じましたか?